新しい一年が始まる日、日の出の時間をあらかじめ調べ、薄暗い早朝に皆そろって起きだし、近くの公園の草広場をめざした。チビちゃんも肌を寒気にさらし目をパッチリ開けている。
すでに大勢の人々が、思い思いの祈念を胸に集まっている。子どもたちは元気だ。犬は飼い主の足元で凛として、やがて太陽が昇るであろう一点を凝視している。お年寄りも連れ合いや家族に支えられ集い、なおも新しい年に思いを巡らしている。
思えば昨年は、なおも続くコロナ禍のなか、2月の下旬に突然始まったロシアのウクライナ侵略に振り回され、世界が混乱した。わが日本もとんでもない方向に行きかねない。すでに危ない橋を渡り始めている、という指摘もある。
おそらく多くの人々が、争いをやめ和解の道を歩みだすことを望んでいるだろう、と思う。発端がどうあれ。だって、あの世界の一点がわが身に、自分たちの生活につながっていることを実感し始めているから。
大きな世界や、二国間のことや、身近な個人の間でも争いは起きる可能性はある。物事は均一ではなく、わずかな違いは綻びとなり、場合によっては争いにまで発展するかもしれないから。そこで終局として「和解」が求められる。
冷静な第三者の裁断で、接点や中間点をさぐり、大事・小事をおいて妥協の道をさぐる。両者は納得できないことではあっても、角突き合わせ互いに睨みあっていた視線を未来に向けなおし、「和解」を受け入れる。そこに残される幼いもの、弱者の痛みはそれぞれの肩に担われる。どのくらいの時間を要するかはわからない。
……予定時間を20分ほど遅れ、やがて顔を出した真新しい太陽に向かって、そんな思考をめぐらしながら旧年中への感謝と、新年の平和と無事を祈って手を合わせた朝でした。