#香椎台 木もれ日日記

香椎宮の森の木陰で、広い空をながめながら日々の思いを綴ります

法で愛情を裁けるのだろうか

 なぜか、テレビでも新聞でもネットでも静かだ。イクメンやコマーシャルで流される幸せそうな家庭像は、どれだけの一般的なものなんだろう。いや、そうした映像とはかけ離れてしまった家庭は、数的にも比率としてもまだ少ないのかも知れない。にしても、そうした人々は決しておろそかにはできない、と思う。いわゆる「共同親権」のこと。

 まずは教科書がやられ、学校現場の荒廃がいわれ、近年、さらには教員を育てる大学までねらわれて改悪されつつある。そしてこのたびは家庭のあり方までかきまわされようとしているのに。一番の被害者は未来ある子どもたちだ。

 本年4月16日、自・公・立・維の修正による離婚後「共同親権」を導入する民法改定案が4党などの賛成で衆院本会議で可決された。条文案が示されたのは、わずか1ヵ月前。先立つ法務委員会は6日間(21時間)のみ。

 立民が提示した修正案「父母の合意がない場合には共同親権を認めない」等はなく、親権の用語問題、子どもの意見表明権などは顧みられなかった。離婚後でも家裁の判断で父母の同意がないまま「共同親権」が決定されかねない。なぜならDV等の実態を立証することは困難であり、ただでさえ人的・体制的にも大変な家裁の負担は増すばかりで、それどころか訴えの激増は避けられないと予想されている。

 片方の親の同意がないままの、子どもの就学、医療など「急迫」時に迫られる意思決定についての検討は不十分で、医療現場に多大な負担をかけるばかりか、子どもの志望や「命」すら危険に導きかねない内容は、どれだけ国民に広く知らされているだろうか。

 欧米の国では常識だ、等々。法制度や実態が知らされないまま機械的にあてはめようとする。ジェンダーとはほど遠く、古い男性優位の意識がみえかくれしているように思えて仕方がない。

 自民党野田聖子少子化担当相ですら、「党全体としての議論はほとんどやっていない状態だ。中身が周知されていない」として採決時には起立しなかった。

 日本共産党、れいわは反対の論陣を張った。共産党の仁比参院議員は「愛情の強制はできない。こどもの意思に反する強制はこどもを傷つけることになる」と主張した。家庭のあり方が激変しかねない、「共同親権」の意味を十分に国民の議論にゆだねるべきであり、拙速な決定には異議あることを示していく必要があると思われる。

 

京都を旅して、いま

 先年、初夏の京都へ旅し、歩きまわったことがある。嵐山の緑濃い竹林の道を抜けてたどり着いたところが、化野(あだしの)念仏寺だった。小雨ふるなか、境内に白い墓石が数限りなく点在している一角に、件の六地蔵がひっそりと建っていた。正確には「六面六体地蔵」といい、仏教でいう、すべての衆生が生前の業の報いによっておもむ く六種の輪廻の世界を表しているという。

 すなわち地獄、畜生、修羅、天道、人間、餓鬼の六道。ぐるっと回ってなにげなく見ていると、そのうちの餓鬼の像がなんともいえない表情でしばらく見入ってしまった。ほかはいろんな仕種であったり、表情にも違いがあるけれど、餓鬼は両手を合わせ、なにごとかひたすらに祈っているようで、安らかな顔にも見える。阿修羅の像とは違うけれど、通じるように感じられた。

 人間の基本的な欲には、食欲、睡眠、呼吸、性欲、排泄などがあるが、およそ最も基本的なものは「食欲」ではないかなと思う。それは人間に限らず、動物にも植物にもいえて、エネルギーとなるものを取り込むことなしには生存できず、ミクロの世界でいえば細胞の次元でもいえる。そして種の生存のためには生殖(性欲)。

 「普通に食べられればだいじょうぶですよ」なんて、小児科の先生もいわれる。その点、うちのチビちゃんは例え熱があろうと、食欲が衰えることはまずなく、あっても数本の指で数えられるくらい。周囲もそうした姿をみて、とりあえずホッとする次第…。

 ひるがえって、特に今のガザでの惨状は目をおおうばかり。人口構成でも男性成人は比較的すくなく(殺されたり、投獄されたり…)、半分以上は成人に満たない層といわれる。しわ寄せは弱者にいき、住居どころか病院も破壊され、食糧も乏しい。乳幼児に大人の少ない食物をまわそうにも無く、次々に死んでるという。国連援助のトラックに食物を求めて次々と群がる。それをイスラエルは銃撃の対象にして殺害している。

 遠い日本では、今国会にとうとう農基法(食料・農業・農村基本法ほか関連法案)改悪案が閣議決定され、国会に提出されている(2024.2.27)。とりわけ「食料供給困難事態対策法案」はひどい。食料輸入が困難になったら(おそらく戦争など)、農家にイモなどを作らせるという。花農家にも。食料自給の柱は投げすてて、違反したら罰則付き。作物の種や肥料などは大きく外国に依存しているし、それらを勘定に入れれば自給率は10%前後ともいわれるのに!

 世界の(外国の)できごとは、この遠い日本の台所、私たちの胃袋に直結していることは間違いなく、値上げラッシュの店頭を漫然とながめるばかりではすまない。

 

春を告げる花

 息子が小さかった頃、毎朝、ほうきを持って庭や家の前の道路をそうじするのが課せられた仕事だった。春には小さい花がたくさん積もって、彼はブツブツ文句を言いながら、時には怒りながらほうきをふりまわしていた。

 そう、庭には年々大きくなるミモザの木があったから。青空には黄金色の花々がよく似合っていた。花言葉として、感謝、友情、密かな愛、エレガンスなどがある。もっとも彼にとっては迷惑な花でしかなかったかもしれない。

 3月8日は「国際女性デー(International Woman's Day)」。1904年3月8日、ニューヨークの女性たちが参政権を求めてデモを行った日だ。それを記念して国際的に女性の様々なイベントが行われている。それのシンボリックな花でもある。またヨーロッパでは”春を告げる花”とも言われている。

 1923年、日本で初めて国際女性デーをお祝いした運動の創始者・櫛田ふきさんが、「戦争中、『女性に参政権を』という運動は大変な弾圧の中だった。小さい家でろうそくの灯りで花を見ながら、思いを同じくする女性たちが決意を固め合った」と語っていたという。日本婦人団体連合会婦団連)の会長など、数々の女性運動、社会運動を担ってこられた方だ。

 近年、ジェンダー意識の高まりとともに数々のイッシューをもって多くの女性たちが立ち上がってきている。旧態依然の芸能界や政界など、課題は古くもあり新たなものもあり。それらはまた男性にとっての課題でもある。

 

あなたの中の「鬼さん」は?

 のっけから鬼さんにまつわるお話です。

 国連には国際法に基づく裁判所として「国際刑事裁判所ICC)」と「国際司法裁判所(ICJ)」があります。日本人の赤根智子判事が加わる国際刑事裁判所は、昨年3月、ウクライナ侵攻をめぐり、プーチン氏に逮捕状を出しました。逮捕容疑は、占領地域のウクライナの子どもたちをロシアに移送したことが“国際法上の戦争犯罪にあたる”というものです。これに対し反発を強めるロシアは、同年5月、赤根判事らICCの判事3人を指名手配する報復措置に出ました。(下記、NHK報道より)

 ロシア政府が戦争犯罪の疑いでプーチン大統領などに逮捕状を出したICC国際刑事裁判所の日本人裁判官を指名手配したとロシアの国営通信社が伝えました。ロシアの国営通信社は27日、ロシア内務省の指名手配リストにICCの赤根智子裁判官が掲載されたと伝えました。
 具体的にどのような容疑で指名手配したのかは明らかになっていませんが、ICCはことし3月、ロシアがウクライナの占領地域から子どもたちをロシア側に移送したことをめぐり、国際法上の戦争犯罪の疑いでプーチン大統領など2人に逮捕状を出しました。これに対しロシアの連邦捜査委員会は、3月、赤根裁判官を含む4人に対して刑事手続きを開始し、これまでに主任検察官らを本人不在のまま起訴したと発表していました。

 そして昨年末の26日、今度は国際司法裁判所(ICJ)が南アフリカの訴えにより、パレスチナガザ地区イスラエルが国際条約違反のジェノサイド(集団殺害)を行っているとした訴訟で、イスラエルにジェノサイド防止のためのあらゆる措置をとることを命じました。軍事作戦の即時停止までは名言していませんが。

 イスラエルのネタニヤフ首相は、そうした非難は虚偽であるだけでなく、言語道断として拒否しました。

 ーーこれらの二つのことは当事者こそ違いますが、至極まっとうな判断が下されたと思われるものの、被告側は反発し拒否するどころか前者は裁判官を指名手配するとまで言っています。逆恨みもいいところです。問題はそうしたやりとりをする瞬間も多くの人が攻撃され殺されているということ。二つの裁判所はその現実を直視し、直ちにやめなさい、と言っているのです。

 当事者及び背後には米、ロなど大国の思惑、戦略があるともいわれます。さて、日本という国はどうするのでしょうか。無関係とはいえないし、なによりも平和憲法をもつ国の発言の重みは少なくないはずですが…。あっちはだめで、こっちはいい、なんて言う二枚舌(二重基準といいます)の立場は見透かされ、信頼されません。大国に振り回されず、自分の言葉で平和への道を言うことです。

 おりしも2月3日は節分の日。幼稚園や保育園では鬼に扮した先生や大人に、豆を投げて追い払う行事が多いようです。由来はいろいろで、やり方も様々なようですが、「鬼」は仏教の教えからくるようで、「人間の心にある煩悩の象徴」とか。自分の心のなかを反省する機会になればいいですね。大国の(もちろん日本も)指導者にぜひ振り返ってほしいものです。「戦争ってこわいし、いやよねーっ!」

 

私たちは、私はどう生きるか

君たちはどう生きるか」ー

よく知られている吉野源三郎の少年少女向けの名著であり、それを基にしたといわれる宮崎駿監督のアニメタイトルでもある。その制作にいたるNHKドキュメント「プロフェッショナル」を観て、次いでWBCのジャパン優勝までのドキュメント番組を観た。

それぞれ違った形と内容ではあるものの、各人の強烈な生き様を描き、それなりの感動を得られるものであった。少なからず興奮をたしかにしたし、何がしか自分も頑張ろう、このままじゃいけないと怠惰な自分を鼓舞させてくれる。

だが、TVのスイッチを切って用を足し、しばらく脳内で反芻していると、それぞれのよって立つ足場はどうなんだろう、状況はどう考えられているのだろうか?と問いたくなる自分がいた。たしかにそれぞれ格闘し活躍してきた姿を切り取って映像化したものではあるが。

でもたった今の瞬間、10分に一人の子どもの命が奪われているガザの戦場をテレビや新聞で見聞き、財布の中身を数える毎日、…。そんな自分の足場から自分は何をどうしようというのか。宮崎駿監督のメッセージはまだなかなかつかみ切れていないけれど、これまでの作品に定番のような展開を極力排した進行には、各人の目の前の岐路をどう考え、選ぶのかと問われるものを感じた。

作品の時代背景は戦前(といっても80年近く前のことであり、いまだ”戦前”の呼称は使われている)。それは多くの時間を経た今日の日本の状況においても、なにかしら似たものを感じてしまう。そうした鋭い時代感覚を監督は抱き、観衆に提示しているのではないか。しかしその解釈は各人にゆだねられる。そのために解説はいっさいしないし、語られることはない…。



人はプーさんに劣る?

くまのプーさんは、子どもによく愛されているキャラクターだ。チビちゃんのベッドにもそのぬいぐるみが2体転がっており、人形ごっこや、寂しい時の話し相手にもなっている。

でも最近、リアルの熊のニュースがよく登場している。町なかを歩いていたとか、山で山菜採りの人が襲われたとか、登山者が被害にあったとか…。そこで熊への見方が分かれてしまう。いわく、人間世界と山との緩衝地帯であった里山の荒廃が招いたものとか、植林と伐採で木の実などが不足し食材を求めて人間界に下りてくるのだとか、もっと大きく言えば、人類が招いた地球環境の問題によるもの等々。どちらかと言えば人間を断罪する方向かな。

一方、被害を被った人間の方からは、そんな熊は許しておけない。即刻、駆除すべきだとか。駆除にも方法は分かれ、捕まえて山に戻すべき、あるいは猟友会に依頼して銃で文字通り駆除するもの。熊の責任を問う方向。

でも人間への被害にも違いはあることに留意したほうがいい。野菜や果樹、あるいは遭遇して争ったあげく傷害を負ったなどの事例と、傷害のあげく人体を食べられてしまった事例は根本的に異なる。

いったん人間の身体の味を覚えた熊は、常習的に人間を襲うことになりかねない。人間そのものが直接的な目標になる。それは古来、北海道での悲惨な例が示されている。それは文字通り、銃などでの駆除を必要とされる。

絶滅させるのではなく、一定数での保護の対象にする、許容量以上は削減する、という「自然保護」の考え方もある。C.W.ニコルさんなどの「日本の森をまもる」という善意に基づくもの。でもこの議論にもなにか違和感をおぼえてしまう。

必要性はわかるものの、命(野生の動物に限らない)の数を管理するという、なにか理性的な考えは冷たい合理性をイメージしてならない。人間が自然を管理する、そんなおこがましさを感じる。あの北海道のアイヌの人たちは、熊に襲われ、闘うことはあっても神として崇めることを連綿としてきた。鮭でも必要量以上は獲らない。

同じ人間同士でも、違う種類の人間には区別し排他的となり、あげくは排除しようとすることがたくさんある。究極は戦争。パレスチナの地では、人間の命は標的であり、駆除の対象になっている。同じ動物同士ではありえず、人間のみがもつ残虐性…。

 

天井のない監獄 (Open-Air Prison)

それはある日、とつぜん目の前にできていたんだ。

網を張った鉄格子の壁ができていたんだ。

そりゃ、びっくりして、あとずさりして急いで逃げ出したよ。

だって手を掛けたら網がからむし、塀はのぼれたもんじゃない。

近寄ったり、そこをうろうろしてたら何をされるかわからないから。

 

その壁ができる前は、そこはそりゃいいところだったな。

日当たりがよくて、ふかふかの土のうえで寝ころんだり、

おしっこやうんちもし放題。野菜なんかもかじれたし。

風通しがよくて、遠くのビルや家も見渡せて。

 

ここの家ができる前は僕たちは自由に遊べてたんだ。ずっと昔からね。

時々は大きな声で叱られたり、追い立てられたりしたけど、

でもここで遊んじゃいけないって、誰が決めたのかな?

ここの新しい家の主人っていわれてる男かな。

 

その男がフェンスを買ってきて立てて、網を張りめぐらした。

植えた大事な野菜をまもらなくっちゃ、なんてぶつぶつ言いながら。

「こりゃ、なんか『天井のない監獄』みたいだな。こっちが入ってるけど」

そして遠くをみながら、真剣に考えごとをしてた。僕たちのことじゃなく。

 

なんでもパレスチナ人という人々がたくさん押し込められているところに、

イスラエル人という兵隊が、いっぱいの人殺しの道具を使って何人も殺して、

いなくなってしまえ、そうじゃなけりゃ、ここから出ていけって言うんだって。

僕たち猫はお互い殺すことなんかないけど、人間たちは平気なのかな?