#香椎台 木もれ日日記

香椎宮の森の木陰で、広い空をながめながら日々の思いを綴ります

人はプーさんに劣る?

くまのプーさんは、子どもによく愛されているキャラクターだ。チビちゃんのベッドにもそのぬいぐるみが2体転がっており、人形ごっこや、寂しい時の話し相手にもなっている。

でも最近、リアルの熊のニュースがよく登場している。町なかを歩いていたとか、山で山菜採りの人が襲われたとか、登山者が被害にあったとか…。そこで熊への見方が分かれてしまう。いわく、人間世界と山との緩衝地帯であった里山の荒廃が招いたものとか、植林と伐採で木の実などが不足し食材を求めて人間界に下りてくるのだとか、もっと大きく言えば、人類が招いた地球環境の問題によるもの等々。どちらかと言えば人間を断罪する方向かな。

一方、被害を被った人間の方からは、そんな熊は許しておけない。即刻、駆除すべきだとか。駆除にも方法は分かれ、捕まえて山に戻すべき、あるいは猟友会に依頼して銃で文字通り駆除するもの。熊の責任を問う方向。

でも人間への被害にも違いはあることに留意したほうがいい。野菜や果樹、あるいは遭遇して争ったあげく傷害を負ったなどの事例と、傷害のあげく人体を食べられてしまった事例は根本的に異なる。

いったん人間の身体の味を覚えた熊は、常習的に人間を襲うことになりかねない。人間そのものが直接的な目標になる。それは古来、北海道での悲惨な例が示されている。それは文字通り、銃などでの駆除を必要とされる。

絶滅させるのではなく、一定数での保護の対象にする、許容量以上は削減する、という「自然保護」の考え方もある。C.W.ニコルさんなどの「日本の森をまもる」という善意に基づくもの。でもこの議論にもなにか違和感をおぼえてしまう。

必要性はわかるものの、命(野生の動物に限らない)の数を管理するという、なにか理性的な考えは冷たい合理性をイメージしてならない。人間が自然を管理する、そんなおこがましさを感じる。あの北海道のアイヌの人たちは、熊に襲われ、闘うことはあっても神として崇めることを連綿としてきた。鮭でも必要量以上は獲らない。

同じ人間同士でも、違う種類の人間には区別し排他的となり、あげくは排除しようとすることがたくさんある。究極は戦争。パレスチナの地では、人間の命は標的であり、駆除の対象になっている。同じ動物同士ではありえず、人間のみがもつ残虐性…。