#香椎台 木もれ日日記

香椎宮の森の木陰で、広い空をながめながら日々の思いを綴ります

ずんせいを語れ!

映画監督の鶴橋康夫氏のコラムに、とても共感できる言葉が書かれてあった。恩師の口癖だったとのこと。「せえず(政治)は標準語でも語れるが、ずんせい(人生)は方言でしか語れんぞ。お前も人生を語りにみんなのところへ帰って来いや!」

自分の人生、お互いの人生を語り合うにはありきたりの、借り物の言葉では賄えない。それまで生きてきた世界の、生活に根ざした言葉でこそ嘘偽りのない語り合うことができるのだ、そんなことだろうか。

全国でその意味をまあまあ分かりあえるほどの言葉、つまり標準語(共通語)である日本語が成立してたかだか150年前後。それまでの和語にしても、もとからのネイティブな話し言葉に加え、歴史的には大陸や朝鮮半島を経て渡来したものが定着したものであったし、さらに明治維新以来、欧米からの大量の言葉を輸入し作り上げたもの、といえる(井上ひさしの戯曲『國語元年』に詳しい)。

田舎人間を愚直に振り返れば、それでも田舎の言葉には、同じ県内でも地域でも、いやひとつの家庭でもさまざまなバリエーションがあり、言い間違いがあり、語るに語れない(つまり言葉にできない)思いがいーっぱいあったよ、と言えるかもしれない。

それでも今の日本社会は地域を疲弊させ荒廃させ、田舎社会が成立しにくい方向へ向かっている。方言もそんな社会があってこそ、生きて生活している人々があってこそ成立する言葉なので、なんだかとても愛おしくなってくる。

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